yong chun quan

歴史

清朝へのレジスタンス活動に関わっていると言われる南少林寺はその反清復明 闘争のたに清朝の恨みを買い寺を焼き討ちされ煙へと消えた。(南少林寺は伝説上の寺と言われてる。)逃げ切った少林五老の一人 五枚尼姑は蛇と鶴の戦いにインスピレーションを受け自身の武術に取り入れた。まだ名もない武術であった。

 

五枚尼姑の弟子、四川省で豆腐屋を営んでいた女性 厳詠春に伝わり、厳詠春の夫 梁博儔から梁蘭桂へ、紅船戯班の中国オペラの役者黄華寶・梁二娣へと伝えられた。厳詠春の名をとり詠春拳という名が付けられたとも言われているがその他にも地名や寺の永春堂で練習されていたためとも言われている。伝説であり真相はわからない。

 

紅船戯班の内部で伝承されてきた武術であり紅船戯班の黄華寶・梁二娣から受け継いだ後の詠春拳王と呼ばれた梁贊。梁贊は受け継いだ武術(永春拳)をまとめた人物でもあり、この頃から詠春拳と言われるようになった。武館を構えることはなく教えたのは自分の息子と信用ある僅かな弟子だけであった。

 

葉問

1893年、広東省佛山市で裕福で立派な家庭に育つ。

13歳の時、詠春拳王と呼ばれた梁賛老師の高弟の陳華順に弟子入りをするがお坊ちゃま育ちで華奢な葉問を本腰では教えていなかったが熱心に練習する姿に心打たれ真剣に教え始めた。(銀8両という高額な月謝を支払って個人教授を受けていた。)

葉問は最後まで教わり続けた最年少の弟子であった。その後も葉問少年が修行出来るようにと面倒みたのは呉仲素という兄弟子であった。

 

その後、16歳の葉問は香港の聖ステファン書院(St.Stephen's College)で勉学に勤しんだ。ある日、武術をやっている梁という名の男に出会うが若かった葉問は腕を試したく構え挑戦したが手も足も出なかった。

その男は陳華順の師、梁賛の次男 梁壁だったのである。

梁壁は理論、技術も優れた武術家であり、葉問を弟子として受け入れ秘技を与えた。1918年24歳 葉問は故郷佛山にもどる。

三人の師から詠春拳を受け継いだ葉問は独自の理論の詠春拳を確立していくことになる。

1937年~1945年日中戦争

戦後、全ての財産を失い、さらに国共内戦により身の危険を案じ当時イギリスの植民地下にあった香港に亡命した。

1949年に香港に移り住み、生活の為、本格的に弟子をとり教授するようなり香港で詠春拳という名が知れ渡ることとなる。 

 

葉問口訣

その拳套の要求する理念(念頭)が間違えば全てが無駄になり 先ずは主に腕を練り防御を知り、次は脚を練り歩法を知る。とどまるのか?流すのか?勢いよくでるのか?最終的な段階は門外不出である。 頭を押さえられれば尾はきびきびし、尾を押さえられれば頭をきびきびするのではなくそのはためく中間(一体という事)を求める事が大事である。

自身は常に正面を維持し相手の中心を知ることである。対面すれば形で追うのではなく、手のみで追うのでもなく、形によって手を補い、手によって形を補う事である。

力は地面から沸き上がり拳は心(念頭)から作られ発っせられ、その手は自身の門から離れない。

相手の実を避け最も弱い部分を攻撃し打つこと。相手の貪欲さや自分に恐怖があっても己は欲深さを相手に見せてはならず、情がある時は手を出さず、手を出すときは容赦はしてはいけないが自ら愚かな事は選ばずともに消し去る事である。